• このエントリーをはてなブックマークに追加

コロコロ

 予算委員会で一日あーだこーだ言ってる間にいくら費用がかかるか知ってます?いや僕が知ってるわけじゃないんですけどね。給付金問題で揉めるために費やされる費用を別なことに使ったら、出生率が上がったりお医者さんがゆっくり眠れたり学校が改修されたりしないんかなぁとか思ったので。


 最初は「生活支援」だったのに途中で目的が変更か追加かされて「消費刺激」とかになった。そのため辞退しろだのもらって使えだの混乱した。その間にも経費がかかってるんよねぇ。

 目的とか意義とか、途中でころころ変わるからおかしくなったのだと思うけど、どうなんでしょう?世の中そういうもの?

 不変の目的があって、その実現方法が効率化や困難回避などのために変更になるっていうのはわかる。ところが、不変の方法(=給付金)があって、その目的や意義が変更されてしまうと、本来の目的も後出しの目的のどちらも『本気度』が低いと思ってしまう。「その方法さえ実現できれば目的はどうでもいいんでしょ?意義なんて付けたしでしょ?その方法をやっちゃうと何かオイシイことでもあるんでしょ!」って。穿った見方になるのかな?世間の人はそうでもないんかな。いまいちその辺がよくわからない。

 ある目的を実現させるための方法は何通りもあると思うんだけど。なぜ道をひとつにして違う目的地に行けるんだろう。方法に合った意義を後付けしていくと、方法の選択肢はどんどん狭められるのだろうなぁ。きっと。しらんけど。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

WordPress/Twitter/Facebookのアカウントも使えるようになりました。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください