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hope for best, prepare for worst

 皆さんもご存知のとおり、今年の錦川では、たくさんの方が亡くなりました。なぜ、錦川ばかりに集中したのか、それは、祟りのせいです。なんてことはありません。他に泳げる川がなかったからであって、そこらじゅうの川が泳げる川だったらそこらじゅうで事故は起こってたと思います。単に、錦川で泳いでいる人数が多かったので、一定の確率で発生するだろう事故の絶対数が錦川に集中してしまったというだけのことだと、私は思っています。

 ではその確率を減らすにはどうすればいいのか。・・・どうすりゃいいんでしょうねぇ。


 教育関係者はどうやら近づけないことを第一に考えているふしがあります(cf.「夏休みの生活指導で、危険な遊びはしないよう学校を通じて家庭に呼び掛けている。家庭でも安全への意識を高めてほしい」)。なぜ危険かは教えていない、とは書いていないので教えた上でのことかもしれませんが、川へ近づくことを阻止することは不可能と考えなければならないと思います。

 いえいえ、不可能ではありません。川へ近づくことを阻止するのは、簡単なことです。ダムをたくさんつくり、水を淀ませ、濁らせ、臭くて汚い川にすればいいのです。錦川ももうひとつダムができますから、きっと事故は減るでしょう。

 でも残念ながら(?)まだ錦川は泳げるほどきれいです。個人的にはダムなんて作らなくていいからきれいなままであって欲しいと思うのですが、しかしここは日本ですから、きっとダムは作られるでしょう。きっと水難事故を減らすためにも必要なんでしょう(?)。あ、だめです。道頓堀川でさえ飛び込む人がいるのですから。やっぱムダでした。お詫びして訂正致します。

 最近読んでいる新谷さんの「73回目の知床」では、ニセコのコース外滑走について書かれてあります。それと同じで、いくらロープを張って進入禁止としても、そこにある楽しさを知っている人はどうやったってロープをくぐってしまうので、それでは事故は減ることはありません。当の「管理者」は近づくなと指導したということで責任の範囲を区切って、そこから先は事故したって知らないよーん、ほーら、近づくなって言ったのに・・・。ってことにしているのかもしれません。もちろん、本当に危ないところは本当に危ないって知らせるべきですが、それなら川なんて全部危ないとさえ言えるでしょう。

 でも大切なのは、そこにある危機について知識を蓄え、回避する知恵と技術を体得することだと思います。危険だから近づくなと小学生に言っても、中学生や高校生になったときにはきっと近づくと思います。でも、小学生の間に今そこにある危機を学ぶことなく過ごし、ちょっと背伸びの時期に危険を知らないまま足を踏み入れて、事故につながるという例も多分あるのではないかと思います。何も調べずに書いていますから、ただの推測ですけどね。

 かといって、勝手に遊ばせるのがいいかというとそうではありません。昔はいわゆるガキ大将などの先輩が遊び方を教えていたといいます(これも私は川遊び歴が短く、その時代を知らないのでよくわかりません)。そういう、危険を知り危険を回避するすべを知っている人のもとで、危機を管理されながら対処する能力を身に着けていく必要があるのでしょう。今は、そういうガキ大将などはいないらしいので、そこは大人がしっかりと見ていないといけませんよね。

 タイトルの"hope for best, prepare for worst"という言葉、直訳すると「最悪な事態に対して準備をして、最善を願う」でいいのかな?日本で「悲観的に準備し、楽観的に対処する」と呼ばれている言葉と同義だと思うのですが、危機管理の基本だそうです。平時には、心に最悪の地獄図を描いておくのがいいそうです。なんかね、こういうコトバを頂くと、オレって良いこと書いてるじゃーん、なんて、そんなこと書くと読者様が減少していくという最悪な事態を想定できていないじゃないかと怒られるような気もしますけど、あまりに臆病すぎるチキンな自分を正当化してみたりしたいと思うのです。ハハハ。私のチキンハートは皆さんよくご存知だと思います。結構、あっさりポーテージを決めますし。でもそれじゃイケナイ、今こそチキンを克服するんだ!って瀬に突入したらクリティカルなところで沈してパドルを折った経験もありますので、やっぱりまだまだ心の鶏の声を聞こうと思います。

 「最悪の事態を常に想定できる人は、やるべきことがちゃんとわかっている」と、元内閣安全保障室長の佐々淳行氏は仰ってるそうです(cf.「プロ論」)。そんな危機管理だなんて、国家のことじゃあるまいし、そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ、ってもんじゃないんです。だって、オッパッピーはオーシャンパシフィックピースなんですから。あれ?話を戻して、これは、ビジネスだろうが遊びだろうが恋愛だろうが何にでも応用できることだと思いますよ。

 子供が一人で川に入ったら、流れに足を取られたら、もし流されたら、もし溺れたら、そう考えると、川に来る前にどんな準備が必要か、川で遊ばせている間にどうしていなければならないか、そんなことがわかると思います。でも、そのためにも、川というところがどういうところか、知識が必要でしょう。知識があって、起こりうる問題を想定して、危機を回避する知恵と技術を得て、そして上手な付き合い方ができるようになって、それでやっと川遊びが楽しいものになるんだと思います。そしてそれは、川や海から遠ざけるだけでは決して得られないものだと思います。

 川から遠ざけることは「過保護」だと思います。「過保護」は絶対的に安全かもしれませんが、成長はありません。教育のことを知らない私が言っても説得力のかけらもありませんが、私が思うには、全ての危険を支配下に置いて、その中で子供に川で得られるあらゆる体験をさせることが重要なのではないかなと、想像してみるのです。溺れかけたり、コケで滑ってこけたり(ここでは駄洒落ではありません!)、流れに流されてみたり、川を横断してみたり、ありとあらゆる経験をさせて、体を使って川がどんなものかを吸収させることが、川の教育なのではないかと思いました。

 溺れてもすぐに助けられる状態、危険なところへ流されていかない状態にしておいて、何かあってもすぐ助けられる準備をしたうえで子供を自由に遊ばせる、それが、危機をコントロールするということなのかな、と思いました。

 夏休みに会った少年は、お父様によれば、一度おぼれかけたことがあるそうです。それから自ら必ずPFDを着用するようになったとか。小さいながらに、危険があるってことを体得しているんですよね。溺れかけたことのない人は、そんなことがわからないから、次に危険な目にあったとき、溺れかけたで済むか、溺れて亡くなるか、あとは運で決まるだけのことかもしれません。

 今年も新南桑橋から飛び込むワカモンががいました。泳ぐには深いけど、橋の上から飛び込むには浅いのにね。どのくらいの深さがあれば安全かってことがわからないのかもしれません。もっと深くて飛び込みやすいところがあるってことを知らないのかもしれません。飛び込むなって禁止するより、飛び込むならこっちでやれって教える方がいい、かどうかはよくわかりません。ひょっとしたら、私なんかより彼らの方が安全だと知っているのかもしれません。そこが川遊び初級者の私の限界なのかもしれません。

 川遊び初級者として、よくもまぁここまで生き残って来れたものだと思いますが、それはそれで子供の頃体験しなかったようなことをガイドのくろさんの元でたっぷり経験できたからよかったのでしょう。溺れかける経験もしたし何百回と沈脱したし、臆病な鶏だったからよかったのかもしれません。

 ってことはですよ、オトナになっても(心はコドモ、見かけはオヤジですが)子供たちと一緒に川で遊ぶことによってオトナも成長できるってことですよね。心がオトナじゃないから成長できるのかもしれませんけど、子供と一緒に、最悪の事態を想定しつつ対応策を準備した上で楽しく遊べば、子供が川ガキになるのとともにオトナも川オヤジや川オバになれるのだと思います。

 川オバ?オヤジの反対はオフクロだから川オフクロ?ジジイの反対はババア、オヤジの反対はオフクロ?うーん・・・

 「危険な遊びはしないよう学校を通じて家庭に呼びかけている」これはもしかしたら「川へ近づくな」ではなく、「危険でなくなるほどの知識と知恵と技術を十分に身につけてから川で遊べ」ということだったのかもしれませんね。なるほど~。奥が深いわ。

 そうそう、今年体得した川遊びの知恵がひとつあります。PFDなしで仰向けにぷかりと浮くと、海と違って多少沈むのですが、息を吸って腹を膨らませると浮いてくるんです。なんか、あたりまえっちゃあたりまえなのですが、自分の体の浮力がいかほど~?って体感できました。すみませんね、次元が低くて。初級者なんでこんなもんです。しかしこれをマスターすれば、泳いでる間に疲れたらそうやって浮いて休憩することができるわけです。知らないと焦って溺れるかもしれません。いや、溺れかけました!いや、そこまではないかな。だんだん疲れてきて、このままじゃやばいなぁと思って、そこで、ぷかっと浮いて、しばらく休憩して、また泳ぎ始めたら戻れました!あぶないあぶない。

 そういうわけで、川の危険に無知な私は、毎週のように川へ遊びに行き、そこに潜む危険を調べなければなりません。これは仕方のないことなのです。川の危険をマスターするまでは、通わなければならないのです。あー、まだまだ川に行かなきゃなんないなぁ~。仕方ない、仕方ない。

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臆病といえば
フェイルセーフ

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コメント

  1. けんと(^。^)y-。oO より:

    「悲観的に準備し、楽観的に対処する」…う~ん 難しいな~(^^;
    事故がなくなれば…とは思います、どこの川でも同じだろうけど錦川で…ってなれば特別悲しいです。
    「危険なところに近づくな!」って誰にでも簡単に言えるとりあえずの防止策???
    でも確かにquickturnさんが言うように、ちゃんと言ったのに…って言い訳が出来るようにってだけの気がしますね。

    じゃ~どうすれば…ってのはもちろん分かりません(^^;
    もっとこうしよう…ってのもないし…。
    それなのにまた週末は川に行けないし(T^T)クゥー

    まっ画期的な方法が簡単に見つかるなら…、自然が相手じゃない交通事故何かは簡単に激減するでしょうしね。
    まずは自分が事故を起こさないことから…。
    それから廻りにもっと目を配ることから始めるぐらいかな~(^^;
    もっとまとめてコメントしろってねm(__)m

  2. 山奥 より:

    現在の小学校やスイミングスクールでは着衣水泳の授業があります。また、同時に身近な道具(ペットボトルやランドセル、タオル等)で浮く手段も教えます。
    ただ教えるのがプールの中ですから川や海で実践できるかは疑問です。(やらないよりはましでしょう)

    私は幽霊や祟りを信じるほど心の美しい人間ではありません。しかし、お盆に川や海で遊ぶことは避けるようになったし、事故のあった直後の川で遊ぶ気にはなれませんでした。
    子を持つ親心を笑われても結構と思っています。
    大人がフィールドの事故で死ぬ分には気にもなりません(自己責任を取っただけのことですから)。でも、子供は違います。なぜか今でも事故のことが心に重く引っかかり錦川へ向かう気になれないのです。

  3. 杖ぱ より:

    何と言うか、一言では言い表せない気持ちが渦巻く状態です。

    もっと子供を、自然の中で遊ばせる事に帰る事を考えた方がいいと思うんですよね。
    自然のなかで遊んでいれば、「楽しい」「危ない」「痛い」などを、ごく当たり前に経験します。
    川にしても山にしても人にしても「どのくらい無茶できるか」ってのは、実際に触れてみて、触れられてみてを繰り返さないと、理解できないんですよね。
    で、その「限界」を知らない世代が親になって、子供には「限界」を教えない・教えられない。
    で、更にその「限界」をしらない子供が育っていく。
    で、こういうシーズンには浮かれて無茶したバカが、死んじゃう。

    長くなりそうなので、この辺で止めときますね。
    すみません、お目汚し。

  4. よこぱぱ より:

    私は今は水が汚くなった江の川で夏は泳いだり、石積みして魚追い込んだり。
    海パンの中に石入れて運んでパンツが脱げた事も(爆)
    アホな事やってました。
    やっぱ日々遊べば様子が変わった所がわかるし、危険も感じるし、なんか防衛というより脅しで「川に近づかない!」を子供を子供を制御するのはどうかな~と思います。
    私も小学4年のとき海で波にのまれて疲れ果てて泳げなくなって溺れたのだけど、自分の力量を過信しないと言うのが身に付きました。(叔父に助けられました!)
    「身をもって体験」良いんじゃないですかね。
    ドキドキして遊ばなきゃ子供じゃないしね。
    > まだやってる私って子供かも?

  5. quickturn. より:

    けんとさん

    >自然が相手じゃない交通事故何かは簡単に激減するでしょうしね。
    どうでしょう?
    僕は自然より人間の方が怖い論者(?)なので、
    人間相手の方が制御が効かないような気がします。

  6. quickturn. より:

    山奥さん

    >大人がフィールドの事故で死ぬ分には気にもなりません
    僕は大人が死ぬのも気になります。

  7. quickturn. より:

    杖ぱさん

    >「どのくらい無茶できるか」
    >「限界」
    なるほど~。
    この言葉を使えば、続編で言いたいことがうまく表現できました。
    パクらせて頂きます。

  8. quickturn. より:

    よこぱぱさん

    >今は水が汚くなった江の川で
    うちからは江の川の方が近いので、ロール練習によく通ってました。

    >ドキドキして遊ばなきゃ子供じゃないしね。
    大人ももっとドキドキして遊んだ方がいいと思います。

  9. 山奥 より:

    >僕は大人が死ぬのも気になります。
    事故検証は必要と思いますが、どんな大人であれ自分の取った行動に責任をとるのが大人ですから。
    子供は「犠牲者」です。
    子供の頃の生死は運不運もあるかもしれません。
    (皆さんの経験談にもあるように)
    >もっと子供を、自然の中で遊ばせる事を考えた方がいい。
    錦川はさておき、私の身の回りでは人の手が入った自然しかありません。親水護岸も見た目は人に優しそうですが、ずかずか入ると危険な物に豹変します。

    とはいえ、適度なフィールドを探し東奔西走する馬鹿親です(笑)。

  10. quickturn. より:

    >どんな大人であれ
    いろんな考えがあるもんですね。
    僕は、犠牲者だろうがジサツだろうが大人だろうが子供だろうが
    ヴァカだろうがヤンキーだろうが死人が出たら気になります。
    まぁこの記事は子供の事故だけじゃなくて人間の事故を減らせるか?
    という話なので、そもそもご意向に沿ってないようですね。

    >私の身の回りでは人の手が入った自然しかありません。
    だから自然で遊べないままで、そのさておかれた錦川に来て
    事故が起こってしまうのではないか、という話のつもりでした。
    わかりにくくてスミマセン。

  11. 山奥 より:

    そもそも、今回の錦川の2件(子供)の事故は、自然や川の恐ろしさ知る知らない以前の問題なのです。
    親(大人)が目を離した隙に起こった過失による犠牲なのです。
    読む気があれば私のブログも読んで下さい。

    その他のことでは、あなたの言うことが正論なのでしょう。

  12. quickturn より:

    目を離した結果どうなるかっていう最悪の事態を
    親が想定できていなかったのではないか、っていうことを
    書いたつもりでしたが…
    僕は何を怒られているのでしょう?

  13. 山奥 より:

    >僕は何を怒られているのでしょう?
    私は、近頃の親と雨後の竹の子のように出現する自称アウトフィッターの無責任さに怒っているのです。
    (お前もだろと言われるかも知れませんがね)

  14. quickturn より:

    それが、僕が死人が出たら大人だろうが気になるということに
    反論なさる理由なのですか?

  15. 山奥 より:

    反論ではありません。
    私の考えを述べたまでのことです。
    大人は自分が取った行動がどういう結果をもたらすか考慮できるものだと思っています。
    (できないまま大人になっているのが多いから書いているんでしょって言われるかもしれませんが。)

  16. quickturn. より:

    やっと理解できました。

    山奥さんの考えは(同意するか否かは別として)「性善説」だと思います。
    「大人は自分が取った行動がどういう結果をもたらすか考慮できるもの」
    大人は、川を熟知して、川の危険を理解して、子供から目を離したら
    どうなるか考慮できているはずだ、ということでしょう。

    その考え方に則れば、「親として、考慮していて然るべきこと」が
    蔑ろにされて事故が起こったのだから、山奥さんが憤慨される、
    というのも、理解できます。
    同様に「考慮できないで死んだ大人」を気にしないというのも
    理解できます。
    自分が取った行動がどういう結果をもたらすか考慮できずに勝手に
    死んだわけですからね。自業自得ですよね。
    (続く)

  17. quickturn. より:

    一方僕は「性悪説」です。大人だろうが子供だろうが、
    川の危険なんて全然知らずに川へ来ていると思っています。
    どういう結果をもたらすか考慮できなかったから、事故が
    起きているのでしょうから。

    ここでいう「性善説」によれば
    「そんなことも知らずに川で遊ぶなんて親として失格」でしょうが、
    「性悪説」では
    「どうやったら危険を知らしめて事故を防げるんだろう」と
    思いめぐらすわけです。

    事故のあった場所はいずれもよく知った場所です。
    そこで昼夜と過ごせば、否応なく事故のことを考えます。
    どういう状況で事故が起こったのか、聞いてもないし
    見てもいませんので想像でしかありませんが、想像します。
    (まだまだ続く)

  18. quickturn. より:

    川を泳いで渡ろうとしたのだろうか、見た目は流れているように
    見えないところで流されていることに気付いて慌てたのだろうか。
    それとも、気付かないうちに急に深くなっているところに流され、
    足が届かなくてパニックになったのだろうか。
    深いところで水温が違ってびっくりしたのだろうか。
    魚を逃がそうとして、浅いところと油断して川に入って、
    予期せぬ強い流れに足をすくわれたのだろうか。
    それとも、コケで滑ったのだろうか。

    親はそこに流れがあるってことを知らなかったんだろうか。
    流れがどれだけの強さか知らなかったんだろうか。
    子供が流されるなんて思ってなかったのではないだろうか。
    プールと同じと思ったのではないだろうか。
    知ってたら、PFDをつけさせたのではないだろうか。
    流れに近づかせなかったのではないだろうか。
    目を離さなかったのではないだろうか。
    前述のとおり、全て想像です。
    (もう少し続く)

  19. quickturn. より:

    一方、そう考えている自分は何故そんなことを知っているのだろうか。
    遊べる川がこの日本に存在するなんてことは20数年間も
    知らずにいました。「川遊び」とかは大昔にやっていたことだろうと
    思っていました。
    だから、その20数年間は山奥さんのいう「考慮されるべきこと」
    なんて一切知りませんでした。
    なのに何故今自分が川のことを多少なりとも知っているのか。
    それは他でもなくカヤックを通して川で遊び川で泳ぎ、瀬を歩いたり
    瀬を渡ったりして何度もこけたり滑ったりして体で覚えたからです。
    それも一人でではなく、信頼のおけるガイドのもとで覚えてきたのです。
    カヤックなんてものをやらずにいたら、今も知らないままでしょう。
    (次で最後)

  20. quickturn. より:

    僕が川を知った方法は川で遊ぶことでした。
    だから僕と同じように川で遊べば、少なくとも僕くらいの知識は
    つくはずでしょう。
    それでもショボそうですが、でもちっとはましでしょう。
    だからこういう記事になったというわけです。
    おっしゃるとおり、「できないまま大人になっているのが多いから
    書いている」んです。

    話が噛み合わないと思っていたら、思想が違うから仕方がなかったんですね。
    (やっと終わり)

  21. 山奥 より:

    おもしろく読まさせてもらいました。
    「川で泳ぐな」「遊泳禁止区域で泳ぐな」を守ることは「性悪説」から来るものでは無いのですか?
    その逆説からすれば、そいうものを守らずに(自己責任で)川に入ることは「性善説」と考えたりもします。
    哲学とは終わりのない学問ですから、結論は求めません。
    私も事故についての検証はしているつもりです。自分の周囲に居る人たちには川の危険性について口を酸っぱくして言っています(でも傾けない方も多い)。
    すると、自己責任でやられたらよろしいとなるわけです。
    話が噛み合わないのは、錦川を始めとする水の事故が自然や川がどうこうという以前での問題(事故)であると私が考えているからです。

  22. quickturn. より:

    >「川で泳ぐな」「遊泳禁止区域で泳ぐな」を守ることは
    「人間は、禁止しても守らないものである」が性悪説だと考えてます。
    守ってくれる人ばかりなら事故は減るでしょう。
    冒頭に書いたコース外滑走も同じだと思います。

    >自己責任でやられたらよろしいとなるわけです。
    未然防止を考えるときには「責任」は意味がないと思います。
    だって、(知らないでは済まされませんが)知らないんですから・・・。
    「慣れた人間にとっては危険箇所は十分判っているのですが、
    そうでない人にはどこが危険箇所すら判らないのです。」
    と以前山奥さんからもコメントを頂いています。
    目を離してしまった親も、川遊びに慣れていなかったのではないか、
    危険とは思っていなかったのではないかと想像するわけです。
    責任については僕らが言うまでもなく当事者は重く感じていると思いますよ。

    でも口を酸っぱくして言って聞かない人はどうしようもないので
    身をもって体験してもらうしかないだろうと思います。

  23. 山奥 より:

    書き方がおかしかったですね。
    (コメントの書き直しができるといいんですが)
    規則を作り守らせることが性悪説、規則など必要なく自由にさせるのが性善説からくるのでは?って意味で書こうと思っていました。私は子供から目を離した結果と川や自然が関係あるとは思いたくないんです。でないと(性悪説からすれば)規制が厳しくなり、私たちはどんどん川から遠ざけられてしまうでしょう。スーパーやパチンコ屋で目を離して誘拐にあった、駐車場で目を離して車に轢かれたと一緒です。子供から目を離したらどうなるかも判らない、危険とは思わない親が実際にいる...複雑な気持ちです。
    長々とレスを続けてしまい、楽しいはずのブログを汚してしまいましたことをお詫びします。m(__)m

  24. quickturn. より:

    >コメントの書き直しができるといいんですが
    左の欄にも書いていますが、こそっと正誤表をコメント頂けるとこそっと修正します。
    どうぞご遠慮なくお知らせ下さい。

    >でないと(性悪説からすれば)規制が厳しくなり、
    今日もニュースでため池での事故を知らせていました。
    ため池には柵が張られ、危険を記す看板もありました。
    しかし柵にはわずかな隙間もあるそうですが、しかし子供は柵を乗り越えて
    入ってしまったそうです。
    議論は「隙間があることが悪い」「看板の位置が悪い」そうで、
    柵などの規制を強化し、近づかないように指導するそうです。
    僕の考える性悪説はさらに凶悪で(?)、そんなことをしても
    柵を乗り越えるやつは乗り越える、ということなんです。
    その最強最悪な性悪説のさらに上を行く解決策がなければ
    根本的な解決にはならないでしょう。じゃぁどうすればいいか?
    ため池に行くときはPFDをつける、とかですかね。
    実際はありえないかもしれませんが、そうでもしないとまた事故が起こるだろうと
    最悪の事態を想定してしまうのです。

    >危険とは思わない親が実際にいる...複雑な気持ちです。
    僕のいる環境がそうさせるのでしょうか(?)、人間なんてソンナモノと思います。
    アホでバカで無知で想像力に欠けてミスを起こすものです。
    本音は「自己責任で勝手にすれば」とあきらめているのですが、
    何かの巡り合わせでこの記事や山奥さんの記事を読んだ人が
    危険を知ろうとすれば、失われる命が少しは減るかもしれないと
    僕にしては殊勝な考えを持っていたりします。

    >楽しいはずのブログを
    いえ、これは元より楽しくないブログですのでどうぞ謝ったりしないで下さい。
    管理人が言うので間違いありません。
    ここでは遠慮は不要です。
    僕はこんな考えなので不愉快な思いをさせるといけないと思い、
    他所のブログへのコメントを控えてしまってますが、
    ここでは自分のところなので遠慮なく書いています。

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